「板倉民家の創出」にようこそ!
このページは今(2025年5月11日午前5時)から順次書き留めてまいります。
私のつたない文書内容に、加除訂正など頻繁に行いつつなんとか想いをお伝えできればと思っております。お見苦しい点多々あろうかと思いますがどうぞよろしくお願いいたします。
ごあいさつ・・・
想像してみてください
家族が愛し大切にしてきた「家」その家が次世代の家族に同じように愛され大切にされる風景をです。
想いを込めた我が家にずーっと住み続けたい。先も親族に住んでもらいたい。その思いは皆さん一緒です。ですがそうならないこともあります。それは仕方ないことなのです。白栗不動産の過去12年間を振り返ったとき古民家に携わった風景はまさにそれなのです。しかし「価値ある家(古民家)が次世代に再び評価される」それはとてもうれしいことです。それは「わが子を嫁がせる親の気持ち」ではないでしょうか。
家は、人の一生をはるかに超えて残るもの・残すべきものです。このことを胸に「板倉民家の創出」という私たちが願ってきた事業をいま前に進めてまいりたいと思います。
家は小さくてもいい
長明の方丈庵、良寛の五合庵、海外ではヘンリー・D・ソローの丸太小屋。
共通するものは「心の解放と内面の充実」にあります。それを求めて簡素・簡潔な場所に身を置く、まさに「棲む」という感覚なのでは。
ミニマムなサイズに秘めた「小宇宙」。
私たちが目指すイメージする「板倉民家」は、そんなおもいが遂げられる「家」であればと思っております。
5月12日加筆
はじめに
日本のどこでも、古い木造の建物が壊されています。
理由は様々でその行動に口をはさむことはもちろんありません。
ですが、「もったいない」と思うことも多くあります。
私たちは今まで、壊す一歩手前であった一握りの古い建物の売買、移築、再生などを通して、古い建物を必要とされる方々への橋渡しをしてまいりました。
しかし、古民家専門不動産としての業務、過去12年間を振り返ったとき、
「次世代の古民家となる新たな「民家」を創出できていない」と言う忸怩たる思いが常にありました。
いまその思いを胸に、業務で得た断片的な情報を集め、考え、まとめたときに、
昔から飛騨地方の農山村に点在する穀物倉庫「板倉」に着目し、
もしもこの板倉で暮らすことができたなら「きっと素晴らしいだろうなあ~」という空想に似た感覚を前に、進めようと思い至ったのです。
5月14日加筆
「私たちは板倉の潜在能力を引き出した新たな感覚の住居を提案します」
板倉は、農山村地域に暮らす人たちの調度品や穀物を保管するための小さな純木造建築物です。
板倉もまた時代の流れの中で新たに造られることはなく年々数は少なくなっていますが、飛騨の農山村の原風景を想起させてくれる心の砦だと思っています。
街中の土蔵は耐火建築物。使用目的は同じでも建築日数・費用の面で大きく異なる、似て非なるものと言えるでしょう。
板倉が美しいと言えるのはその素朴さにあります。
母屋からの類焼避けるための距離(立地)と、その簡素・簡潔な佇まい。
加えて、板倉はとても頑丈な構造を併せ持つ建築物でもあります。
どこから見ても美しい板倉が放つ精神性にも似た懐かしさ、時代という砥石で磨きに磨かれてきた
シンプルな構造・意匠に本当の価値を見出していただきたいのです。
私たちは「板倉に思いを込めよう!」と決心しました
先人の知恵と板倉の素養を尊重してまいります
そして
100年先も凛と佇む立派な古民家「板倉民家」を創出したいと思います。
「古い家のない街は、思い出のない人と同じ」~東山魁夷~
次世代のための創出、その中心にあるのは、
良い職人、良い材料、そして、あなたです
さあシンプルに目的をめざしましょう!
簡素・簡潔の先にある豊穣の家づくりのために!
白栗不動産がお手伝いいたします
5月18日加筆
「いい板倉民家を建てるために」
”家を建てるのは誰でもない職人 ”
昔、「野丁場、町場、檀那場」といういわゆる作業の進め方を話し合う「場」があったそうです。
今で言うと建築会議のようなものでしょうか。
檀那とは「だんな」施主のことです。
以下引用
「場」という一つの言葉にも私ら職人の歴史がうめこまれているのだが、いわばそうした仕事の場の他にもうすこし私ら職人にとって重い「場」がかつてあったということを思い起こすことも無駄ではあるまい。 中略
左官職は、塗り壁の仕事に入る前の「檀那場」をたてて、それがだんなの縁側である場合もあろうし、左官のせまい座敷であるかもしれないが、兎も角だんなをいれた場を設けて、大工と左官が塗り壁の仕事を話し合う場の事である。
大工の柱や造作が上物だから塗り壁をどうしよう、予算の足りない分は、わしらでもとうじゃないか、左官二分の一、大工二分の一だして。 中略
私らは商売にかまけて、家造りがほんらいチームワークによって成り立っていることを忘れてしまったのではなかろうか? こうした「檀那場」こそが、家造りというチームワークの「場」であったはずである。
小林澄夫著「左官礼讃」石風社発行から
職人としてあるべき心構えを吐露したと同時に、
「檀那場」の「だんな」施主としてなすべきことをなしたゆえの「場」であることもみえてきます。
気づくのは、仕事を進めるうえで施主と職人には同等で互いを尊重しあう関係があって、すべていい家造りをすることに向けられていたことです。
幼い頃の私が、木片欲しさに入り込んだ大工の作業場にもおそらくそんな「場」があったことでしょう。「男は手に職を」が子供心にも浸透していた時代だったのですから職人は憧れでありまぶしい存在でした。いまの時代、私たち施主となる立場の者は職人との関係性をどのように心がけるべきでしょうか?
あらためて「家を建てるのは誰でもない職人である」
職人は、技術という手間をかけカタチ(出来栄え)をみせてくれますが、私たちは手間、職人がカタチづくりにかけた時間を正しく評価できているでしょうか。
施主と職人の信頼関係があってはじめて手間を正しく評価できるわけで、互いの信頼はいい家づくりに直結しているのです。
また、そういった関係性がしっかりしていないとひいてはいい家づくりに大きな欠損を来すことになると思います。
前出の「場」はまさに施主と職人のそういった信頼関係醸成の場でもあった訳です。
いま、現場に若い職人が少ないのもその一つの現われかもしれません。
”職人は釘一本打つべきところにしかと打つ、
そして 施主は打つ所作・音に心を寄せる”
5月22日加筆
いつの時代も本当に良いものかどうかは歴史が証明してきました。良くないものは淘汰され消え去ります。長い歳月の中で育まれてきたものはやっぱり違います。
人の幸福は住まいのありように大きく依存しています。そこで暮らし子供を育て社会にも貢献する。住まいはまさに生きて行く上の基盤であり同時にその素養も問われます。
私たちは家づくりの基本であった「場」を再現しようと思います。
美しく、強く・しなやかな「板倉民家づくり」に努めます。
白栗不動産の12年間は古民家と真正面から向かい合った12年間でした。
自宅は昭和60年富山県から移築した古民家です。
この自宅で暮らした37年間、
「仕事で」そして「古民家暮らし」で味わった感覚は間違いなく素晴らしいものでした。
この感覚をもって次世代のための古民家づくり「板倉民家創出プロジェクト」を進めてまいります。
古民家の移築・再生で大変お世話になっている
(有)長都建設
有限会社 いもと建築
ワタナベ建築
この三社のお力添えを得ましてこのプロジェクトを前に進めてまいります。
どうぞご期待ください。
「どのような板倉民家を創出するのか」 ~感性的には~
私たちは、将来のために伝統文化を残したいという目標があって仕事をした来たわけではなく、ただ、古い建物が好きで、古い建物が好きなお客様の要望などに応える形で古民家の売買・再生・移築に携わってまいりました。
私たちは建設業ではありません。
しかし「家をつくる」ことにはとても興味があります。
そのもとになっているのはたくさんの古民家に触れてきた感覚、ある意味感性的なものかもしれません。理路整然と家はこうあるべきとはとても言えませんが私たちはそのようなお話はできると思っています。
人生を送るうえで家はとても大切であることはどなたも認めるところです。
最近は家をファッションのように考えてみてもいいのかなと思っています。
軽い意味ではなく、美しく・素敵にという意味においてです。
イギリス紳士のツイードのジャッケットのように「傷んだら補修を繰り返し、長く着て、趣を増し味を深めて次世代に」でしょうか。
一言で表現すれば「絵になる家」です。家をそこまで成長させるには何よりも家を大切にすること、そして、大切にした時間の経過が必要です。そのことを楽しむ余裕がなければならないということです。
家に注いだ情熱が大きければ大きいほど家は輝くのです。ですからお金をかける・かけないとは異なることなのです。
私たちは新しいものに心が動かないわけではありません
大きな建築に限らず民家にも自由なデザインや新たな建材が溢れています。それらにちょっと迷ったときはすこし間をとること、進めて少し後ろ向きである方法もあろうかと思います。
高校を卒業するまで育った家は周りの家と比べても決して立派ではありませんでしたが、あの暗くて冬寒かった家、両親がいて、兄がいて、家族4人で夕げの食卓を楽しく囲んだあの懐かしい家。いまになって本当にかけがえのない時であったと思っています。同時に暮らしたたくさんの思い出の詰まった家はもうないんだという喪失感にも似た感覚。このような感じ方の中にこそ大切な家というものを考えるときのヒントがあるのではないでしょうか。
無意識のうちにあの豊かな暮らしを取り戻そうとして私たちは漂っているのかもしれません。
さあ、おぼろげでも目指そうとする家のカタチが見えてきましたか。そのおぼろげさを大切に考えてみてください。
本来、家と自然はとても近い関係でした。いつか自然に帰るもので家が造られていたからです。
私たちは新しいものを否定するわけではありません。ただ、最新で最良のものが数年後はそうでないものとなっている現状を考えると悩みます。
そのようなときはやはり原点に立ち返ること、迷ったら本物を使うことを心掛けてきました。
本物とは長い時間を経ても残っているものでより自然に近いものばかりです。
自然とは畏怖の対象で強くてやさしくて危ういものだと思います。その懐で「生」をいただいている私たちは自然との向き合い方も問われています。自然素材と職人技術の宝庫であった少し前の家を見直す行動の時が今であると思っています。
私たちは「板倉民家」を売り込もうなんて思っておりません。
古民家のお客様もそうであるように、私たちがいま創り出そうとしている板倉民家を求めるお客様も一握りの少数の方でしょう。
それで充分です。ただ共感を持っていただける方に提供して喜んでいただければとても満足です。
そしてできる範囲でお客様にも頑張ってもらわなければと思っています。
もちろん、
職人へのリスペクトも忘れないでください。
自然への畏敬の念も無論です。
お約束として、私たちは
自然を大切にします。
できる限り自然素材を使います。
確かな職人さんにやっていただきます。
伝統構法を大切にします。
飛騨の木を使います
コストを下げる工夫をします。
以下はメモ書き的に。
飛騨から発する意義
飛騨は木の国である
飛騨は匠の国である
今である意義
伝統技術の伝承
持続可能な社会
脱炭素
森林破壊
最近の家は本当にエコであるのか
不耕起栽培、自然農法、無・減農薬栽培、オーガニックなど指向の時
「食」が見直されているときに「住」は違う方向に進んでいるような気がしてならない。
自然然素材の無償性
木の板は床板にも壁板にも屋根材にもなんにでもなる素材
いわゆる建材は
目的以外のものになり得ない素材
ゼッチ、省エネ性能、新耐震基準、建材 このてのものには心が動かない(^^;
伝統構法、石場建て、漆喰壁、仕口、掛矢などに惹かれてしまう(^^♪
日本の伝統木造建築技術がいま危うい。
日本的であるものがすばらしいと気付いてほしい。
”長年、そう、もう70年にもわたって日本文学と文化を研究してきて、私がいまだに感じているのは、この日本人の、「日本的なもの」に対する自信のなさです。違うのです。
「日本的」だからいいのです。
日本人よ、勇気を持ちましょう ~ドナルド・キーン
過去も、そして、いつもそうだった・・・
フェノロサ、ブルーノタウト
外国人が、気づかない日本人に気付かせてくれる。
私は、日本人であることに誇りをもって、自制しつつ意識して生きていきたいと思う。
「壊しては建てる」という従来の日本の住宅文化に疑問を持ち、住宅を年々価値の下がる消費物ではなく、使い込むほどに価値の上がる資産にしたい。という考え方がある。
ただ古ければいいのではなく、価値ある古さであることが必要。
・日本の住宅の利用期間は欧米よりも短い
日本30年、アメリカ55年、イギリス77年
・1951年以前に建築された住宅の割合
日本4.9%、アメリカ24%、イギリス44.9%
・1981年以降に建築された住宅の割合
日本60.6%、アメリカ33.0%、イギリス18.5%
・日本の住宅の寿命が短い2つの理由
住宅を取り巻く自然環境よりも住宅を「長く大切に使う」という考え方が浸透していなかった。
・「造っては壊す」という考え方が主流だった。
新築がよい73.0%、中古がよい9.9%、いずれでもよい14.2%
・築年数(法定耐用年数)が経過した住宅の資産価値が低かった。
市場における既存住宅の割合
日本14.5%、アメリカ81.0%、イギリス85.9%
・住宅寿命を延ばすことができる2つのこと
清掃を通じての日常点検・メンテナンス
定期的な点検・メンテナンス
以上出所 国道交通省・国税庁・内閣府データ
時代の方向性
時代は何を求めているのか
独創性
基本原則(プリンシプル)
小さな一歩を踏み出す
時代の要請に従ったに過ぎない
教育する家
住むことは勉強
人生は学びの連続
人生の中心となる家に学びがあって然るべきでは
いらないものを排除するのではなく、いるものを見つけて選ぶ。チョイスする。
無意識のなかの欲望
家に人生を表現(投影)する。
わからないことを楽しむことができるは人間だけ。
それも素敵という思いを鍛えてくれるそうゆうものかもしれない。
あとがき
燻された黒の空間、隙間から差し込む一隅の光りに深い輝きをみせる柱たち。
日頃の家の手入れはおばあちゃん(主婦)
柱に残るおばあちゃんの手の跡は明瞭です。
そうなんです。柱の上方、手が届くところがまでが輝いているんです。
どんな塗料を持ってしても醸し出せない深く優しい艶。
・・・
穏やかな生活のなかに明確なる先祖へのおもいがあるから、
意識的ではなく無意識の日常の行いだから、
だから尊く美しいんですよね。
石の文化でない木の文化日本の木造建築に永遠があるとしたら、
もしかしたら、
このようなところにあるのでは・・・。